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父の遺産として引き継いだものに阿蘇の山荘がある。湯之谷という地名が表している通り、温泉が出るという地域に数十件の別荘が建てられた。生前ゴルフ大好きな父が、ゴルフ場が近くで便利とばかりに土地を購入し別荘を建てた。私が大学生の頃、帰省した際にはまだ原野である敷地にテントを張りキャンプした。できたばかりの別荘に泊まると、電気が通じていないことを初めて知るということもあった。 そこで見合いをし子育てしたのだから、我が家にとっては思い出深い山荘であることには違いない。しかし、山の家というのは住んで初めて分かることが多い。とにかく家の管理が大変だった。行けば温泉が出ない、水がでない、ネズミが悪さする、山火事に遭遇するなど想定外のことが次々に起こった。その都度対応を迫られるのだが、大抵は問題解決せずに我慢を強いられた。そしてある時、1年ぶりに別荘に行きドアを開けると、中は湿気でぼろぼろになっていた。 それから別荘を放棄したまま約10年が経とうとしている。しかし持て余し気味の別荘の固定資産税はちゃんと払わされている。村は不良資産を引き取るよりも固定資産税を聴取した方が得なのである。しかし、思い出の詰まった場所であることは間違いないので、5月の連休中には孫を連れて別荘近くの原野を散策した。放牧中の赤牛に気を付けながら、誰も来ない原野の水たまりで魚釣りしたのは小さな子供たちにとっては良い思い出になったはずである。
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私の生涯においてロシアとの接点はわずか3点。ロシア旅行の機会が潰えた今、幸か不幸かこの3点を振り返ってみたい。その一は大学で第二外国語にロシア語を選んだこと。これから日ロ貿易が盛んになるはずだと父が勧めてくれたことによる。ただ大学紛争により授業が少く且つ日ロ平和条約の締結もされない現状では、わずか数語覚えているのみ。こんにちは、さようなら、ありがとう、愛してる、と散々である。ただ、学生時代はロシア文学には傾倒した記憶がある。 その二は両親のロシア旅行の土産話だ。ソ連時代にモスクワやレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に行ったものと思う。女性の通訳がまるでKGBのスパイのようで、旅行中監視され使用中の手帳は中身までチェックされたとか。飛行機のロシア人乗客が土産物のトマトを大切にしており、ソ連の食料不足を痛感させられたとも話していた。 その三はアメリカ視察旅行中にニューヨークに立ち寄った時のこと。ロックフェラーセンター近くにロシアの土産品店があり、そこで一点ものの彩色された母娘の人形を買った。入れ子になっているマトリョーシカとは違い、アーティストによる芸術作品であり今でも大切にしている。歴史上偉大な作曲家や作家を生み出してきたロシア、早く正気を取り戻してほしいと願っている。
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バブル景気の頃業績好調な企業の間では、毎年の利益の1%を寄付に回して社会に還元しようという動きがあった。その名も1%クラブと称していたが、バブル崩壊後の不景気によりいつの間にか忘れ去られてしまった。企業の文化・芸術活動に対する支援は企業メセナとも言うが、景気に左右されることなく継続するのは難しい。 そうした中にあって、私が参加していた日本IBM主催の九州フォーラムなどは例外中の例外と言えよう。この会に招かれたことにより、約10年間素晴らしい人と出会うことができ、また貴重な討議の場を経験させていただいた。あのフォーラムは今はどうなっているのだろうとときどき思い出す。 過去を振り返ると、私の会社もいくつかの団体や組織に少額ではあるが寄付をさせていただいてきた。熊本城復元のための一口城主に社員全員を登録、被災した城の復元のために商品売上の一定割合を寄付、業界団体解散時の残余金をこども食堂基金に寄贈、そして今回は2年連続して公益財団法人鶴友奨学会に100万円を寄付することができた。コロナ感染が拡大する状況下、苦学している子供たちを少しでもサポートできればありがたいと思ったのである。
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