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今年の古書市には一週間の会期中に二度顔を出した。思いがけない本に出会うのが古書市の魅力だ。因に買った本は、立松和平の「晩年」、別冊太陽「東大寺」、画集「長谷川利行」、森敦の私家版「聊斎志異」、繪入草紙「おせん」、「画家たちの二十歳の原点」、谷崎潤一郎著「盲目物語」、荒木経惟「センチメンタル・冬の旅」の8冊。 いつの頃からか経営や経済に関する本は買わなくなったし、あまり読まなくなった。それらの残骸は未だ本棚にあるとはいえ、手に取る事は少ない。決して優れた経営理論を持っている訳ではないが、ある年齢に達した時にもう十分に実践で鍛えられたのだから理論はもういいやと思っている自分がいる。優れた理論も実践に供して初めてその有効性が確かめられると思う。 良き友人と同じくらい大事なのが、私にとっては良き本かも知れない。読書を習慣にすることができたのは、両親が作った家庭環境であったし、社会人として勤めた会社の雰囲気だったと今さらながら感謝の思いがする。幸い今は読書の秋だ。ダイエットに励みながら、知的好奇心を満たす秋にしたいものだ。
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静岡県にある豪華なゴルフ場付きのホテルの泊まった時に事件は起こった。広大は敷地には遊歩道が整備され、観察しただけでも秋明菊、曼珠沙華、木槿、グラジオラス、ウバユリ、ネジリバナ、紅葉した蔦などがあった。風呂は温泉でこそなかったが、趣向を凝らしたものと言って良く、清潔で気持ちよく入れるものであった。
楽しい会食が終わり、深夜ベッドで寝ていると左手の指がチカッとした。眠りかぶっているので気のせいかとか思う。さらに睡眠を続けていると今度は首筋がチカッとする。ここに至って、何かがいると疑問が確信に変わり、何かが何であるか確かめないといけないと決意してガバッと跳ね起きた。煌煌と電気をつけて枕元を見ると、なんと百足が一匹枕を這っているではないか。愕然としてさらには必死となり、百足をトイレットペーパーで取り押さえた。日頃百足に対する恐怖であるとか気持ち悪さなどはどこかにふっ飛んで行き、とにかく百足を排除したい一心だった。時計を見ると深夜1時。それからの睡眠は、さらに百足が出てこないかなどと考えれば、浅くならざるを得なかった。 翌朝のことである。チェックアウトしようとフロントに寄り、昨晩の経緯を説明し、証拠としてビニール袋に捉えた百足を渡した。昨晩はひどい目に会った、百足に刺された、部屋に殺虫剤を撒くなどしたが良かろう、などの趣旨の話をした。すると若いホテルマンはやおらバックヤードに戻って行き、私にムヒを渡しながらこれを使ってくださいの一言。あまりの素っ気ない対応に、私がこのホテルは時々百足は出るのかと尋ねると、彼は百足はたまに出ますと答える。一体どういうホテルなんだと唖然とした。百足の出るホテルに誰が泊まろうと思うだろうか。百足に刺された客が重大な症状が出る可能性があるとは思い至らないのだろうか。(私の場合は、結果的にはまだ小さい百足で幸い症状は軽かったが。) 一流を誇るホテルや旅館は全国には数多くある。しかし、このホテルの応対を見る限り、小池都知事が提唱している言葉を真似れば、お客様ファーストを実現しているとは到底思えない。見た目を重視し、心を忘れた商売をしては行けないと改めて自戒させられる出来事であった。
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恩師の突然の訃報であった。一ヶ月前にお会いした時は持病に苦しんでいるとはいえ、いつもの明るい態度で接していただいた。享年87才だから天寿を全うされたと思い、ご冥福を祈ろう。 お通夜と葬儀に参列しながら、恩師の人柄を思い出して俳句をひねり出した。 「秋天を 龍の昇りて 遺徳あり 」 恩師(H氏と呼ぶ)との思い出は尽きぬほどある。まずは私の両親とH氏との親密な関係があった。戦後は両親もH氏もゼロからのスタート切るようなもので、熊本市内の問屋街で食品問屋をそれぞれ営んでいたのである。当然ながら、両家はお互い励まし合いながら、時には取引をしながら戦後の復興に賭けたはずである。 結果的には高度成長期と呼ばれた時代も、変化が早く競争が激しい業界では企業の淘汰が続いた。両親の会社が長年利益を十分に出せないままでいる間に、H氏は武運つたなく店をたたんだ。しかし、H氏の能力を高く買っていた父は、H氏は必ずや復活すると予言した。当時は遊びのない時代であり、問屋街ではよく相撲が取られた。そして、腕力が強いH氏は相撲に強い、バイタリティ溢れる人物でもあった。
果たして、H氏は創業者である兄と腹心の部下と僅か三人で惣菜業を創業した。口癖は、士農工商・惣菜屋であった。朝から晩遅くまで、365日作っては売り続けなければならない惣菜業の労働の過酷さを表現したのである。そして、見事に一代で立派な会社を作り上げ、惣菜業を天下の成長産業にまで押し上げたのである。 教え惜しむことのない人格を慕って、全国から多くの人が教えを乞いに集まった。一時はH学校と言われるほどであり、今では数多い卒業生が全国で企業を起こし、事業の拡大を果たしている。また、独自のビジネスモデルは苦心の中から編み出された。創業当時、百貨店に出店し売上の大半を稼いでいたものの、テナント料が経営を圧迫すると考え退出。ロードサイドに直営店を開設し、H方式を呼ばれるほどの成功モデルを作り出したのである。 さて、H氏を何故恩師として仰ぐかは以下のことがあったからである。 平成元年に63才の父を失くした私は、公私ともに大変な事態に遭遇した。当時39才の私には、父亡き後の企業を経営するのは至難の業だった。その時心配してくれたのがH氏であり、青ざめていた私に対して「もし、1億円ぐらいならばいつでも用意するよ」と声を掛けてくれたのである。その時の有り難さは今でも忘れられない。そして、その温情に報いるためにも、またH氏に迷惑や心配は掛けられないと思い、やっと前に進む勇気を取り戻したのである。
その後、終身監査役として我が社の指導を仰いできた。会社の業績報告と称してH氏に会うのが毎月の楽しみであった。会えば仕事の話は5分ほどで終え、後は天下国家のことや趣味の話に没頭した。私を過大評価してくれるのがいつも面映かった。二人して幹部社員を引き連れてアメリカ視察をしたこと、熊本から福岡に進出している企業を束ねる会を創設したことも思い出深い。 今朝は父の仏壇で、H氏が天国に行くので仲良く話し合うように語りかけた。きっと今は会っている頃だろう。
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