芭蕉林通信(ブログ)

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2014年03月11日 和牛とWAGYU

自動車に乗っている時に車載テレビを見ることがありますが、自宅で見る朝晩とは違って、昼はまったく別の番組が放映されていると感じることがあります。ですので、新しい情報を得るのに結構重宝に思うことがあります。
最近では、中国や東南アジア市場を舞台にして和牛とWAGYUのせめぎ合いがあっているという番組には多くのヒントを得ました。要するに、牛肉自由化があった時に、日本の飼育農家は牛の付加価値を上げるべく必死に霜降りの入った和牛を作るよう努力しました。しかし、ある時点でそれら和牛の貴重な精液や生体がアメリカに輸出されたらしいのです。
番組では、アメリカでの和牛飼育は必ずしもうまくいかず、その後それらを輸入したオーストラリアの飼育農家が和牛の大規模な生産に成功し、その結果WAGYUとして成長著しい中国や東南アジア各国に輸出されているということでした。また、バンコクや上海では、和牛よりはWAGYUの方が、価格が二分の一か三分の一と安いため人気があると言うのです。同じ遺伝子を持った霜降りの肉であれば致し方ないのかなと思うものがありました。

問題は、なぜ最高の知的財産と思われる和牛の精液や生体が輸出されたかと言うことです。深くは知らないのですが、当時の意識では知的財産の保護とか和牛の輸出がブーメラン効果となって国内の飼育農家にダメージを与えるとは予見できなかったのでしょう。
ことによっては、特許で保護されるべき重要案件である和牛の遺伝子がかくも簡単に国外に流出したという事実は、企業における知的財産の保護のあり方にも一石を投じる事件を思いました。また、アメリカによる地球規模の盗聴行為が暴露されましたが、産業機密も盗聴の対象であると報道されていたことを思い出しました。
今回の和牛とWAGYU事件はたまたま表面化しただけであって、私たちが知らない所で、膨大な産業機密が今この時も盗み盗まれしていると思うと空恐ろしい気がしてくるのです。

2014年03月03日 悲観的に準備し楽観的に行動する。

歳をとることの利点の一つは経験を積むということです。この経験については青春の思い出があります。それは、大学の入学試験で、国語の出題に「体験と経験の違いを述べよ」とあったことです。必死に200字の制限文字数でまとめたことを今でも覚えています。

今日人生を振り返ってみますと、経験とは人生において多様な機会に恵まれたか、自ら好奇心を働かせて能動的に行動したか、などにより大きな差が生まれるものだと思います。この経験の質と量が充実している人が、仕事や人生の岐路に立った時の判断に有利に働くのは当然のことです。

従って、、物事に挑戦する際には、この経験に根ざした想像力が必要となります。かつて、学生時代に先輩から教えられたのはアンティシペーション(予想、予期)でした。つまり、テニスやバトミントンなどで、相手のショットの行方を予測し、そのボールを迎え撃つために先回りして対応することを指導されたのです。

今日の事業環境は、絶え間なく挑戦することを強いられていると言えます。経済や市場の変化が激しいからです。そういう時にこそ、自らの経験とアンティシペーションを土台に、あらゆる難題や課題を想像して、それでも想定通りにはいかないかも知れないという危機意識を持って、準備すべきと思うのです。そのことを悲観的に準備すると言い、そのことができていれば、やってみれば意外とうまく行ったとなるのではないかと思います。

もっとも、人間の想像力というのには限界があり、さらに個人差があるのですから、方程式通りに行かないのが現実です。しかし、プロとして仕事をする以上は、想定外のことが起こったと言い訳することができないのも事実なのですから、緊張感と集中力を忘れないようにしたいといつも思っています。

2014年02月24日 旧家からの掘り出し物

休日に馴染みの店主から携帯電話がありました。ご先祖は亀屋覚平と言う人かと尋ねられたので、私が明治時代の創業者であることを告げると、面白いものが手に入った、という返事です。感じるものがあり、是非にも取って置いてもらいたいと答え、後日譲ってもらったものがこの印刷物です。

一見して感動いたしました。大判の油紙に羽を広げた雄のクジャクと雌のつがい、牡丹が組み合わされたその中心には、乾物卸売所の広告らしきものが描いてあるのです。しかも、発行人として、「やまカ」の屋号と「亀屋覚平」とあります。多分、これは明治半ばのものと推定(その理由は後で)しましたが、今まで不確かだったことでありましたが、当時は、屋号として「やまカ」を、店名は「亀屋」としていたことがはっきりいたしました。社史としては新発見と言えるのです。

古文書を読むことができないために、本文の解読は専門家に依頼中ですが、蒟蒻粉、昆布、漬物といった文字は読めますので、当時の主たる取り扱い品目が分かってきます。

さて、これとは別に譲っていただいたものが、歌舞伎の興行に関する一枚です。これには、熊本阿弥陀寺町東雲座にて、中村鴈治郎一座が興行した際の出演者一覧が載っているようです。

手元の資料で調べたところ、明治に入って熊本には、市民の娯楽のための芝居小屋が三カ所あったとあります。それは、川端町の末広座、阿弥陀寺町の東雲座、船場町の歌舞伎座です。この内、東雲座は明治21年に開設されたようで、現在山鹿市に保存されている「八千代座」のごとき立派な芝居小屋が庶民の娯楽の場として隆盛を極めていた時代があったことが知れました。因に、明治33年に50人を越える娼妓さんがストライキに立ち上がったという遊郭「東雲楼」とは別施設のようです。

こうした付属資料のおかげで、乾物卸売の印刷物は明治半ばのものと推定したという訳です。それにしても、ご先祖さまが、会社のPRのために、こうした手の込んだチラシを作り配ったことに畏敬の念を覚えたのでした。

100年以上も前の資料を今日まで大事に保存して来た旧家に、感謝の気持ちでいっぱいです。

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