2020年02月25日 亡父のゴルフセット
亡父のゴルフセットを見つけたのは売却寸前の両親の家の納戸であった。30年以上前のドライバーやスプーンのヘッドはパーシモン(柿の木)製である。アイアンはアメリカ製のリンクスなのは、未だ国産の手頃なゴルフセットが発売されていなかったからであろう。先日、何気なく見ていた「なんでも鑑定団」で同じようなゴルフセットが鑑定されており、僅か1万円であったのには苦笑した。と言うのは、私は見つけた亡父のゴルフセットを丁寧に磨きあげた上に、会社の応接室に陳列していたからである。 それにしても1万円査定は物の価値を再考させられる出来事であった。なぜかならば、亡父のゴルフセットは私にとってはかけがえのない宝物だからである。物には市場価値があり、所有価値と使用価値とに分けられる。歴史的なあるいは芸術的な物は所有価値を有するが、機能性があり使い勝手が良い物は使用価値があると言える。そして、亡父のゴルフセットは市場価値・所有価値・使用価値など何もない、さしずめ思い出価値のみがあると言える。愛着のある物なのである。 世の中にコレクターはごまんとおり所有価値に命を削る。オークションでは万が一ライバルがいれば、想定落札価格を大幅に上回る値がつき落札される。そうしたことを聞くたびに、物の価値は自分自身のものさしで決めたいと思う。叙勲という制度は人の業績をある意味でランク付けして表彰するものであるが、他人の評価などではなく自分自身が満足できる人生ならばそれで良しと思う。負け犬根性を許してもらえるならば、表彰などは「まっぴら御免なすって」なのである。
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2020年02月20日 うらやましい「春眠暁を覚えず」
最近は加齢のせいか夜中によく目が覚める。昨晩の例で言えば、朝かなと思い時計を見ると深夜2:44、エッと思って再度就寝するも、また4:24に目覚める。まだまだ起きるには早いと考え目を閉じる。5:48に三たび目覚めたので、もう寝るのは良かろうと思い、最近の習慣として続けている通りに目を閉じたまま俳句を作る。ぼーっとした頭でひねり出した俳句は名句だといつものように錯覚する。 かつてレム睡眠を測定する装置を腕につけて寝ていたが、いつの間にか面倒になり辞めてしまった。最近は、某メーカーの睡眠サポートドリンクを飲んではみたが、今ひとつ効果が判然としないまま飲むのを辞めた。最後の手段は、主治医に教えてもらった睡眠導入薬をアメリカに行って買うだけだ。 このように、有名は漢詩である「春眠暁を覚えず、諸処啼鳥を聴く」という心境とははるかに遠い所にいるのが残念でたまらない。作詩した孟浩然はその時随分と若かったのだろうと想像するばかりである。ああ、朝までぐっすり眠ることのできる若さと体力が欲しい。
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2020年02月14日 自服(じふく)するということ
ある日何気なくしたことが、その後習慣化するということがある。私の場合は、「茶箱」で遊ぼうと思いたって一碗の茶を点てて飲んでみたことがそれだ。茶を点てるという気持ちになるにはそれなりに月日がかかったが、実際に点ててみると実に簡単なのである。お気に入りの茶碗に上等の抹茶を適量に入れ、お湯を注ぎ、茶筅でグチャグチャ引っ掻き回し、丸く円を描くように茶筅を抜くと出来上がりである。しばらくの間お点前を習っていた甲斐があったというものだ。 自服するとこれが実に美味しい。また、抹茶はビタミンCが豊富で身体にも良い。茶受けの甘みを何にするか考えて食べるのも楽しい。茶道の先生に長生きする人が多いのは、しょっちゅう抹茶を飲んでいるからとも思えて来る。しかも、抹茶を点てるのはレギュラーコーヒーを入れるよりも簡単な作業なのである。 そもそもコーヒーは毎日4〜5杯ほど飲んでいた。朝一番のモーニングコーヒー、出勤してからの一杯、お客と共に飲む一杯、あるいは2杯、夕方の一杯といった具合であり、いささか飲みすぎではないかと不安に思っていた節もある。今では早朝に自服し、会社ではコーヒー、帰宅して自服という生活のリズムが新年早々から続いている。(注)自服(じふく)とは、亭主が自分で薄茶を点(た)て、自ら飲むこと。 |