2017年09月04日 ジョン・レノン・ミュージアムで
オノヨーコさんの「フャミリーヒストリー」というNHK番組を見て、突然思い出したことがある。それは2001年にさいたま市が誕生した際、駅前再開発の視察に同市を訪れた時のことであった。同市は浦和市、大宮市、与野市が合併してできた市であり、いち早く政令指定都市になるなど熊本市にとっては参考にすべき点が多かった。広く奇麗なペディストリアン・デッキ(歩行者回廊)が設置してあるなど、確かに立派な駅前再開発ぶりであった。 そこで偶然見つけたのが、再開発ビルの一角にある期間限定(2000年から2010年まで)でオープンしている「ジョン・レノン・ミュージアム」である。自由時間があったので、迷わずに直行して入館したが、さすがに見応えがあった。 一番感心した展示物は、ホテルのメモ紙に書かれたイマジンの歌詞である。世界の人々に感動を与えた歌が粗末な一枚のメモ書きから生まれたのだ。さらにオノヨーコさんの作品に、ハシゴを登って虫眼鏡で天井の見るというものがあった。興味津々に眺めた天井には、「yes 」の小さな文字。それがオノヨーコさんの「天井の絵/イエス・ペインティング」という作品であることは最近知った。ふと、全ての依頼にyesと答えることで人生が変わったというアメリカ女性のことを思い出した。
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2017年08月28日 39年前の今日の記憶
今日(24日)は長女の誕生日なので、朝会った時にいくつになったかと聞くと39歳と言う。娘がやがて40歳代になるのだから、私が歳をとるのはしょうがないと思った。それにしても子供はいくつになっても心配の種である。それでも信頼して自分の判断で人生を歩んでいってもらいたいと思う。 そのことで、ふと39年前の今日、私がどこに居たのか思い出した。東京の国会議事堂の前にある建設省・大臣官房政策課にいたのである。日本興業銀行から2年間の約束で建設省に出向中の身であった。そのことをふと思い出したのは、一本の電話がかかったことを鮮明に記憶していたからに他ならない。 その電話こそ義母からのもので、長女の誕生を知らせるものだった。「亀井さん、電話よ」と呼ばれて、取り上げた電話の先で、義母は「おめでとうございます、玉のような、女の子でしたよ」と告げたのだった。思えば当時は、生まれる前に赤ん坊の性別は分からなかった。そして、義母が「たまのような」と一呼吸入れて告げた時に、一瞬にして長女の誕生と悟ったのである。男の子ならば、「元気のよい」と表現されるはずだからである。今ではおかげさまで長女長男を持つ父親である。
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2017年08月23日 スポーツ・ロス
アキレス腱の手術をしたのが5月上旬だったので、はや3ヶ月以上が経った。16年前には右足、今回は左足のアキレス腱断裂なので、1回目を参考にしようと思うのだが思い出せることが少ない。ただ16年前にはゴルフを再開するのに10ヶ月、テニスを始めるのに12ヶ月かかったことはしっかり覚えている。完治するまではかくも長い。「怪我は一瞬・治療は1年」と内心がっくりしている。 身体の一部を怪我すると、そこをカバーしようとして他の部分に負担がかかる。しかもリハビリは、アキレス腱を再断裂しないよう注意しながら進めなければならないので、薄皮を一枚一枚剥ぐような回復ぶりに苛立つ日もある。 さらに悩ましいのは好きだったスポーツがまったくできないことだ。スポーツによってバランスを保っていた適正体重がコントロールできなくなった。その憂さ晴らしがアルコールとは不健康極まりない。リハビリ半ばの現状では、スポーツ・レスの事態に意気が全くあがらないのである。
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