304件〜306件 (全 722件)
<前の3件
・・・
98 | 99 | 100 | 101 | 102 | 103 | 104 | 105 | 106 ・・・
>次の3件
昨日、京都の某寺から観覧予約の往復葉書が届いた。一週間前に投函していたので、OKの返事が来てホッとした。葉書の宛先は当然私になっている。その幼稚な字を見ているうちに最近のお寺の小僧さんも字が下手だなと妙に安心した。とその瞬間、その宛名は私自身が書いた字であることに気付いた。愕然としつつ意気消沈、恥ずかしさで顔が火照った。 自分の字を自分で批判したのでは話にならない。自分の字を自分の字と思わずに客観的に見たのは初めての経験だった。大抵は自分の字は日頃から下手だと自覚しつつ仕方ないと思って書いている。それが突然に他者の字と比較して観察・批評したのだからたまらない。 伊集院静の「文字に美ありや」という本を読書中だったのも良くなかった。文字には美がある。文字には人格が現れる。とすれば、私の人格は未だお恥ずかしい水準という訳なのである。
|
かつて女性から面と向かって、「何でも揃っているのに字だけは下手ですね。」と言われ返す言葉を失ったことがある。褒められているようであり、貶されているようであり、その時私は随分と複雑な表情をしていたに違いない。悪筆であることは十分自覚していたからである。 そのせいか、いつしか歴史上著名な書家の書に魅せられるようになった。書聖と呼ばれた王羲之に始まり、黄庭堅や米芾など中国の書家。日本では聖武天皇から始まり、空海など平安の三筆、本阿弥光悦など寛永の三筆。一休、白隠、仙崖、豪潮、良寛などの名僧。歴史は下って、幕末から明治にかけては副島種臣など維新の志士たち、そして夏目漱石。昭和になっては熊谷守一や松田小平。多くの人がそれぞれ魅力的な書をこの世に残した。 現在壁に掛かっているのは、熊谷守一の書「無一物」である。彼は本来画家であるが、仙人のような質素な生活をしながら研ぎすましたような絵や枯れた味の書を数多く残した。書にはその人の人格や生き様が反映されるとすれば、熊谷守一の書には守一本人の人間的魅力がそのまま作品となり人気が衰えない理由となっている。「無一物」は守一95歳の時の書であり、高齢になり到達した心境を伺わせる。書の魅力は書家の人生が背景にあるからだと改めて感じている。
|
立場上人前で話す機会が多いが、その度にもっと話術を鍛えておけば良かったと思う。銀行の調査部にいた時代は私が報告する度に先輩から突っ込んだ質問を受けた。必死で抗弁するのだが、いつしか格言が生まれた。「あくまで追求他人の失敗、笑ってごまかせ自分の失敗」 話し方の本を読んで勉強したことがある。挨拶にはユーモアが必要との例として、「挨拶と女性のスカートはない方が良い」とあったが、セクハラになりそうでなかなか使えない。 長い挨拶をする人がいる立食パーティは結構つらい。熊本と東京で二度勇気ある行動を目撃した。熊本の場合は、長話を始めて終わりの見えなくなった来賓に対して、会場の一人がつかつかと演題に近寄り一言、「話の長かばい、はよう止めんな。」お見事と心の中で喝采した。
|
304件〜306件 (全 722件)
<前の3件
・・・
98 | 99 | 100 | 101 | 102 | 103 | 104 | 105 | 106 ・・・
>次の3件