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近所に掃除マニアの女性が住んでいる。私が出勤する時には、彼女は既に自宅の前ばかりでなく向こう三軒両隣のエリアを超えて道路の掃除をしている。高齢者に見えるが正確な歳が分からないのは会話があまりないからである。数年前に近所に住み始めた彼女の氏素性は知らないままなのである。 それにしても掃除に熱心に取り組んでいることにはいつも驚かされる。落ち葉が落ちるこの季節は落ち葉は払っても払っても天から降ってくる。それを毎日掃き清めるのは大変だろうと思う一方、頼まれもしない行為がなぜ毎日繰り返されるのか不思議である。新しい街に来てご近所に受け入れてもらいたいのだろうか、宗教的な忘己利他の行為なのか、などといろいろと考えさせられる。 近年ゴミを集めて処分しないままにゴミ屋敷ができ、社会問題化する事件が散見される。しかし掃除マニアの彼女はまさに正反対であり、私などはその掃除ぶりを見るたびに我が家の前まで掃除してくれないかなあなどと不埒な考えに陥るのである。
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貴乃花が相撲協会を引退(退職)するに至った経緯は、まさに独り相撲を取った感がある。弟子の貴ノ岩を殴ったとされる横綱日馬富士をとうとう引退に追い込んだまでは良かったが、自分の部屋の弟子が付き人を殴り怪我をさせたことにより、暴力への批判の矛先は貴乃花自身に降り掛かったのである。 天に向かってつばを吐く感のある貴乃花の行動は、退職という道しか選択の余地はなかったのではないか。世間の耳目を集めるだけ集めて、自らの不始末が発覚したとなれば、組織にいづらくなるのは当たり前のことだ。信念に生きるのはさほどに難しいという典型的な例でもある。 そしてこれは貴乃花の問題だけではなく、身近によく起こることでもある。つまり、他人を批判する際に、自分自身を反省する視点がすっぽり欠けるのである。自分を客観的に捉える冷静さと賢さがあれば、批判する前に口を固く閉ざすことができよう。エドガー・アラン・ポーの詩で大烏(おおがらす)が叫んだように「ネバーモア(もう二度とない)」でありたい。
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江戸時代の僧である豪潮さんは熊本が生んだ名僧である。尾張藩から招かれて晩年をその地で過ごしたが、宝筐印塔(ほうきょういんとう)を全国に千基建立する発願を立て実行した僧である。全国的には白隠さんや仙高ウんが知られているが、地元熊本では豪潮さんの人気は今なお高い。生前から書と画に秀で、白隠さんや仙高ウんの作品のように軽みがない分庶民性はないが、その結果真面目な作品が多く残されている。 最晩年87歳の時の辞世の句を書いた一巻がある。そこに記された一句は、「父母に呼ばれてかりの客に来て 心のこさずかへる古郷(ふるさと)」というもの。仮の世にいると思えば、毎日いただくものはすべて馳走であり、兄弟喧嘩や夫婦喧嘩などはばかばかしい。父母が待っているあの世に帰るのがありがたいと言った趣旨の説明がついている。 身近な人を亡くすのは悲しいことであるが、豪潮さんの辞世の句を思うと心から慰められる。死とは将来必ず自分の身に起こることだが、その時は同じ心境に立ちたいと思っている。
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