芭蕉林通信(ブログ)

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2016年10月04日 ホテルと百足

 静岡県にある豪華なゴルフ場付きのホテルの泊まった時に事件は起こった。広大は敷地には遊歩道が整備され、観察しただけでも秋明菊、曼珠沙華、木槿、グラジオラス、ウバユリ、ネジリバナ、紅葉した蔦などがあった。風呂は温泉でこそなかったが、趣向を凝らしたものと言って良く、清潔で気持ちよく入れるものであった。  楽しい会食が終わり、深夜ベッドで寝ていると左手の指がチカッとした。眠りかぶっているので気のせいかとか思う。さらに睡眠を続けていると今度は首筋がチカッとする。ここに至って、何かがいると疑問が確信に変わり、何かが何であるか確かめないといけないと決意してガバッと跳ね起きた。煌煌と電気をつけて枕元を見ると、なんと百足が一匹枕を這っているではないか。愕然としてさらには必死となり、百足をトイレットペーパーで取り押さえた。日頃百足に対する恐怖であるとか気持ち悪さなどはどこかにふっ飛んで行き、とにかく百足を排除したい一心だった。時計を見ると深夜1時。それからの睡眠は、さらに百足が出てこないかなどと考えれば、浅くならざるを得なかった。

 翌朝のことである。チェックアウトしようとフロントに寄り、昨晩の経緯を説明し、証拠としてビニール袋に捉えた百足を渡した。昨晩はひどい目に会った、百足に刺された、部屋に殺虫剤を撒くなどしたが良かろう、などの趣旨の話をした。すると若いホテルマンはやおらバックヤードに戻って行き、私にムヒを渡しながらこれを使ってくださいの一言。あまりの素っ気ない対応に、私がこのホテルは時々百足は出るのかと尋ねると、彼は百足はたまに出ますと答える。一体どういうホテルなんだと唖然とした。百足の出るホテルに誰が泊まろうと思うだろうか。百足に刺された客が重大な症状が出る可能性があるとは思い至らないのだろうか。(私の場合は、結果的にはまだ小さい百足で幸い症状は軽かったが。)

 一流を誇るホテルや旅館は全国には数多くある。しかし、このホテルの応対を見る限り、小池都知事が提唱している言葉を真似れば、お客様ファーストを実現しているとは到底思えない。見た目を重視し、心を忘れた商売をしては行けないと改めて自戒させられる出来事であった。

2016年09月27日 恩師の面影

 恩師の突然の訃報であった。一ヶ月前にお会いした時は持病に苦しんでいるとはいえ、いつもの明るい態度で接していただいた。享年87才だから天寿を全うされたと思い、ご冥福を祈ろう。  お通夜と葬儀に参列しながら、恩師の人柄を思い出して俳句をひねり出した。  「秋天を 龍の昇りて 遺徳あり 」

 恩師(H氏と呼ぶ)との思い出は尽きぬほどある。まずは私の両親とH氏との親密な関係があった。戦後は両親もH氏もゼロからのスタート切るようなもので、熊本市内の問屋街で食品問屋をそれぞれ営んでいたのである。当然ながら、両家はお互い励まし合いながら、時には取引をしながら戦後の復興に賭けたはずである。  結果的には高度成長期と呼ばれた時代も、変化が早く競争が激しい業界では企業の淘汰が続いた。両親の会社が長年利益を十分に出せないままでいる間に、H氏は武運つたなく店をたたんだ。しかし、H氏の能力を高く買っていた父は、H氏は必ずや復活すると予言した。当時は遊びのない時代であり、問屋街ではよく相撲が取られた。そして、腕力が強いH氏は相撲に強い、バイタリティ溢れる人物でもあった。
果たして、H氏は創業者である兄と腹心の部下と僅か三人で惣菜業を創業した。口癖は、士農工商・惣菜屋であった。朝から晩遅くまで、365日作っては売り続けなければならない惣菜業の労働の過酷さを表現したのである。そして、見事に一代で立派な会社を作り上げ、惣菜業を天下の成長産業にまで押し上げたのである。  教え惜しむことのない人格を慕って、全国から多くの人が教えを乞いに集まった。一時はH学校と言われるほどであり、今では数多い卒業生が全国で企業を起こし、事業の拡大を果たしている。また、独自のビジネスモデルは苦心の中から編み出された。創業当時、百貨店に出店し売上の大半を稼いでいたものの、テナント料が経営を圧迫すると考え退出。ロードサイドに直営店を開設し、H方式を呼ばれるほどの成功モデルを作り出したのである。

 さて、H氏を何故恩師として仰ぐかは以下のことがあったからである。  平成元年に63才の父を失くした私は、公私ともに大変な事態に遭遇した。当時39才の私には、父亡き後の企業を経営するのは至難の業だった。その時心配してくれたのがH氏であり、青ざめていた私に対して「もし、1億円ぐらいならばいつでも用意するよ」と声を掛けてくれたのである。その時の有り難さは今でも忘れられない。そして、その温情に報いるためにも、またH氏に迷惑や心配は掛けられないと思い、やっと前に進む勇気を取り戻したのである。
その後、終身監査役として我が社の指導を仰いできた。会社の業績報告と称してH氏に会うのが毎月の楽しみであった。会えば仕事の話は5分ほどで終え、後は天下国家のことや趣味の話に没頭した。私を過大評価してくれるのがいつも面映かった。二人して幹部社員を引き連れてアメリカ視察をしたこと、熊本から福岡に進出している企業を束ねる会を創設したことも思い出深い。  今朝は父の仏壇で、H氏が天国に行くので仲良く話し合うように語りかけた。きっと今は会っている頃だろう。

2016年09月20日 鷹の渡り

 俳句仲間から誘われて鷹の渡りを見に行くことになった。早朝7時に熊本駅に集合して、二台の車に分乗して一路天草へ。とここまではいいのだが、肝心の行き先は野鳥の会に所属している友人に先導されるまま。なんと3時間かけて牛深近くまで行ったのである。  牛深に至る少し前で、車は突如細い山道に突入した。鷹の渡りを見るのだから、人里離れた場所に行くのは当然と思いながらも必死に先導車に付いて行った。そして、お目当ての六次郎山山頂に着いて驚いたことに、狭い駐車場は車でいっぱい。しかも本格的な超望遠レンズを持っている人、双眼鏡で谷を見ている人、椅子を出してのんびり座っている人。遠くから鷹の渡りを見に来た人達が大勢集まっているのだ。世の中にはもの好きの人がいっぱいいるんだなあというのが率直な感想だった。

 我々も思いがけずに遠くまで来たのだから目的を果たさない訳にはいかない。すぐさま準備してきた双眼鏡を取り出し鷹探しを始める。ところが見慣れていないためか、なかなか見つけられない。野鳥の会メンバーの歓声を頼りに双眼鏡をその方向に向ける。しかしここでまた問題発生。私の倍率8倍の双眼鏡では、遠くの森や雲の中から湧き出すように出てくる鷹を見つけられないのだ。聞けば双眼鏡は倍率10倍は欲しいと言うことだが今となっては後の祭り。カメラに至っては、持参した200ミリでは到底鮮明な鷹の画像は撮り難く、闇雲に鷹が飛翔する当たりにレンズを向けてシャッターを押すばかり。すっかり気が落ち込んでしまった。  しかし良くしたもので、倍率の低い双眼鏡でも鷹を少しずつ見つける事ができるようになった。鷹の種類は、アカハラダカと言い大きさはハトぐらいと教えてもらったが、あまりにも遠いので大きさが分かる訳もない。ただ、雲井から湧き出るように現れた鷹が100羽を越える集団となり、渡りを始めたのを見た時にはさすがに感動した。

 鷹の渡りは俳句の季語となっている。鳥の渡りの内でも、鷹となるとその雄々しさから人気が高いようだ。その鷹達は日本を出て1万キロの旅をしてインドネシアやボルネオにまで行くという。帰りは中国大陸を北上し朝鮮半島を経て日本にたどり着く。鷹はなんと壮大な旅を敢行しているのか。鷹の渡りを目撃するという素晴らしい体験ができた一日であった。

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