2016年10月04日 ホテルと百足
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	 翌朝のことである。チェックアウトしようとフロントに寄り、昨晩の経緯を説明し、証拠としてビニール袋に捉えた百足を渡した。昨晩はひどい目に会った、百足に刺された、部屋に殺虫剤を撒くなどしたが良かろう、などの趣旨の話をした。すると若いホテルマンはやおらバックヤードに戻って行き、私にムヒを渡しながらこれを使ってくださいの一言。あまりの素っ気ない対応に、私がこのホテルは時々百足は出るのかと尋ねると、彼は百足はたまに出ますと答える。一体どういうホテルなんだと唖然とした。百足の出るホテルに誰が泊まろうと思うだろうか。百足に刺された客が重大な症状が出る可能性があるとは思い至らないのだろうか。(私の場合は、結果的にはまだ小さい百足で幸い症状は軽かったが。) 一流を誇るホテルや旅館は全国には数多くある。しかし、このホテルの応対を見る限り、小池都知事が提唱している言葉を真似れば、お客様ファーストを実現しているとは到底思えない。見た目を重視し、心を忘れた商売をしては行けないと改めて自戒させられる出来事であった。 | 
2016年09月27日 恩師の面影
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	 恩師(H氏と呼ぶ)との思い出は尽きぬほどある。まずは私の両親とH氏との親密な関係があった。戦後は両親もH氏もゼロからのスタート切るようなもので、熊本市内の問屋街で食品問屋をそれぞれ営んでいたのである。当然ながら、両家はお互い励まし合いながら、時には取引をしながら戦後の復興に賭けたはずである。  結果的には高度成長期と呼ばれた時代も、変化が早く競争が激しい業界では企業の淘汰が続いた。両親の会社が長年利益を十分に出せないままでいる間に、H氏は武運つたなく店をたたんだ。しかし、H氏の能力を高く買っていた父は、H氏は必ずや復活すると予言した。当時は遊びのない時代であり、問屋街ではよく相撲が取られた。そして、腕力が強いH氏は相撲に強い、バイタリティ溢れる人物でもあった。 
	 さて、H氏を何故恩師として仰ぐかは以下のことがあったからである。  平成元年に63才の父を失くした私は、公私ともに大変な事態に遭遇した。当時39才の私には、父亡き後の企業を経営するのは至難の業だった。その時心配してくれたのがH氏であり、青ざめていた私に対して「もし、1億円ぐらいならばいつでも用意するよ」と声を掛けてくれたのである。その時の有り難さは今でも忘れられない。そして、その温情に報いるためにも、またH氏に迷惑や心配は掛けられないと思い、やっと前に進む勇気を取り戻したのである。 | 
2016年09月20日 鷹の渡り
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	 我々も思いがけずに遠くまで来たのだから目的を果たさない訳にはいかない。すぐさま準備してきた双眼鏡を取り出し鷹探しを始める。ところが見慣れていないためか、なかなか見つけられない。野鳥の会メンバーの歓声を頼りに双眼鏡をその方向に向ける。しかしここでまた問題発生。私の倍率8倍の双眼鏡では、遠くの森や雲の中から湧き出すように出てくる鷹を見つけられないのだ。聞けば双眼鏡は倍率10倍は欲しいと言うことだが今となっては後の祭り。カメラに至っては、持参した200ミリでは到底鮮明な鷹の画像は撮り難く、闇雲に鷹が飛翔する当たりにレンズを向けてシャッターを押すばかり。すっかり気が落ち込んでしまった。 しかし良くしたもので、倍率の低い双眼鏡でも鷹を少しずつ見つける事ができるようになった。鷹の種類は、アカハラダカと言い大きさはハトぐらいと教えてもらったが、あまりにも遠いので大きさが分かる訳もない。ただ、雲井から湧き出るように現れた鷹が100羽を越える集団となり、渡りを始めたのを見た時にはさすがに感動した。 鷹の渡りは俳句の季語となっている。鳥の渡りの内でも、鷹となるとその雄々しさから人気が高いようだ。その鷹達は日本を出て1万キロの旅をしてインドネシアやボルネオにまで行くという。帰りは中国大陸を北上し朝鮮半島を経て日本にたどり着く。鷹はなんと壮大な旅を敢行しているのか。鷹の渡りを目撃するという素晴らしい体験ができた一日であった。 |