芭蕉林通信(ブログ)

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2016年03月23日 漢字を調べる

 漢字が日本に伝わるまでは話言葉があるだけだったなんてことは、活字が溢れる現代社会では想像できないことです。万葉集を読んでみますと、万葉仮名という漢字が当て字として長歌や返歌、あるいは今日言う短歌に使われており、解説なくしては到底読めるものではありません。つまり飛鳥・奈良時代は漢字が中国から輸入されたばかりだったのです。  生まれ故郷である中国では共産党が識字率を上げようとして漢字を略体字にしたことにより、漢字の古い形がむしろ日本に残ったという事実は歴史上の奇跡であるように思います。そして日本人は漢字から「ひらがな」を創造し、平安時代の「枕草子」や「源氏物語」が女手としてひらがなで書かれるに至っては歴史上のロマンであり、日本人の類い稀な感性があってからこそと誇らしくもなります。

 表記語である漢字はもともと象形文字から発生していますので、漢字自体に多様な意味、背景、その時代の政治・習俗が隠されているというのは面白いことです。従って、漢字字体の語源に遡りますと意外な事実を知ることになります。  例えば私たちが仕事をする上で商いをすると言いますが、この「商」という字が仕事に結びつくのは、かつての中国の古代王朝「殷」に遠因があります。「殷」が「周」によって滅ぼされた時に「殷」の民は亡国の民として各地に散らばって行きました。かれら末裔は「殷」から「商」と呼び名が変わりますが、多くの人が仕事熱心で商売上手であったのでいつしか商人が仕事を上手にする人の意味になったのです。

 もう一例をとりますと、「創」には新しいものを作り出すという意味がありますが、さらにもう一つ語源的意味があります。それは「絆創膏」に「創」という字が使われていることから分かることですが、もともとはキズの意味があります。工作をする時、板や紙を加工しようとすれば、必ずその形状を変えようとしてナイフやハサミでキズをつける事から工作は始まります。そのキズが創造の当初の姿なのです。  いちいちここで漢字の解説をすることはできませんが、もしご興味のある方は著名な漢字学者であった伊集院静さんの多くの著作を参考にされると良いと思います。今でも私は暇を見つけては気になった漢字を調べて一人で楽しんでいます。

2016年03月14日 40年前の金利

 今年になって日銀がマイナス金利を導入すると発表した時には一瞬訳が分かりませんでした。新聞などの解説を読んで何とか理解することができましたが、金融緩和の一環として導入されたマイナス金利はその後の円高・株安もあり一般的に不評なのは日銀もいささか運が悪いと言えそうです。

 私が銀行員として社会人生活をスタートさせたのが1973年、第一次オイルショックの年でした。思えばあの年から原油価格は長年の1バーレル1ドルという水準から大幅に上昇して行ったのです。そして1976年に融資課に配属された時、忘れもしませんが長期プライムレート(最優遇金利)は8%でした。5年ものの利付金融債は年6〜7%でしたから、行員間では1億円預金があれば毎年6〜700万円の利子が入るから利子だけで食べていけるねと話したものです。  さらに企業に貸し出しする場合は、オーバーローン(預金残高を越えての貸し出し)時代なので、銀行は貸し出しに必要な資金がいつも不足していたのです。例えば、工場を作りたいと5億円の借り入れ契約を締結した企業に対しても一度では融資できないのです。当時は分割貸し付けと称して、一回目が1億円、二ヶ月ごとに1億円を4回、合計で5億円といった具合です。工場建設を急ぐ企業にとってはたまったものではなかったでしょう。

 こう考えてくると、当時と現在の金融事情の違いに驚かざるを得ません。その違いの背景をここで解説することはできませんが、若い人には想像のできない世界でしょう。私にとっては日本が高度成長期にどん欲に投資を実行していた息吹が懐かしい気がします。思えば遠くに来たものです。しかも社会経済の変化はこれからも永遠に続くでしょうし、それは「動態均衡」という現象そのものだと思います。

2016年03月07日 祝い人(ほいと)

 高橋睦男さんの詩の朗読会は、2013年以来2回目の参加でした。今回は行かれたばかりのギリシャでの体験を含め楽しく且つ興味深い話を聞くことができました。参加するにあたっては「高橋睦男詩集」と「永遠まで」を飛ばし読み(内容が結構難しいのです)して会場に赴いたのです。  最初に高橋さんを知ったのは、長年その著作を読み続けてきた白洲正子さんが親しくしていた人であり、高橋さんが生前の白洲さん自身に関して「韋駄天お正」という称号を付けた詩を書いていたからです。高橋さんは77歳という年齢を感じさせない精神の柔軟さを持っている印象で、今や日本を代表する詩人としてだけでなく、「王女メデイア」の脚本や「伊勢物語」から題材を取った狂言、さらに俳句を作るなどマルチ文化人と呼ぶにふさわしい人です。

 会は冒頭、「旅」という言葉の解説から始まったのですが、その中で昔九州には「ほいと(乞食)」がいて、「ほいと」とは「欲い人(ほいと)」あるいは「祝い人(ほいと)」の意味であると説明されました。その時急に私が小学校低学年の時に遭遇したある出来事を思い出したのです。  当時は毎日親から5円ないし10円のお小遣いをもらい、芥子蓮根の切れ端やちょぼ焼きを買っては空腹を凌いでいました。生まれ育ったのが魚市場や問屋街がある所でしたから食べ物を手に入れることに困る事はありませんでした。おやつの内でも特別の食べ物がお菓子屋さん手作りのミルクキャンディーでした。20円か30円ぐらいとやや高めでしたので、子供心にも芥子蓮根やちょぼ焼を二三日がまんしてミルクキャンディーを買うのはいつも迷うことでした。  そうしたある日、やっと買ったアイスキャンディーを食べようとした時、いつも来る乞食の親子と鉢合わせしたのです。その瞬間、髪がボサボサの私よりも年下の女の子が脱兎の如く私に近寄り、アイスキャンディーを一瞬の内に奪い去ったのです。今でもその出来事を鮮明に覚えている自分が不思議ですが、その時の気持ちは悔しさと共にその少女の手並みの鮮やかさに感嘆し、さらに一種の哀れみに似た感情を覚えたような記憶があります。

 今思えばその少女は「祝い人」であったのでしょう。私は自分の意思とは無関係に食べ物を取られたのですが、そこには何かしら見えないものに祝福される感じがあったような気が確かにするのです。

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