2018年06月26日 中国食べある記
|
ある時現地の市場を見学した時のこと、生きた蛙を売っている店があった。鶏も生きたままだ。主婦が蛙を注文すると、店主は籠から蛙を4匹取り上げ左手の指の間に頭が出るように挟み、鮮やかに頭を切り落とした。そして驚く我々に向かってニヤッと笑ったものだ。冷蔵庫などが発達する前の中国では、食べ物は生きたままにしておき、注文と同時に捌いた方が鮮度が保証されたのである。ちなみに蛙料理については、北王路魯山人も「魯山人味道」の中で「蝦蛙(ひきがえる)を食べた話」として紹介している。 大連で寿司屋に行ったのは滞在最後の晩であった。一週間ずっと生物(なまもの)と水には細心の注意を払い一切口にはしていなかった。ところが日本人同行者が、行きつけの寿司屋だけは清潔でネタも新しいから大丈夫だと保証した。昼食のために寄った寿司屋では、食べ始めてすぐに体調が急変し、挙げ句の果てには病院に運ばれ点滴を受ける羽目に陥った。病院は旧満州国時代の古色蒼然とした重厚な建物であり、苦しみながらも歴史の一コマを感じることができた。料理は美味しかったことよりは失敗談の方が記憶に強く残っている。 |
2018年06月18日 田舎道を
|
途中で見つけたヒマワリ畑では雲間から覗く陽の光に真黄色の花が満開だ。そうだもう初夏なのだ。ヒマワリは種を取るためか油を取るためかと思案する。続く広い畑にはトウモロコシが穂に花を咲かせて背伸びしている。ふと蒸して食べると美味しいスイートコーンを思い出した。村の細い道路にさしかかるとアジサイの群落が迎えてくれた。20〜30の株が一斉に花を咲かせて美しいが、一種類よりも多種が混在した方がアジサイは美しいと思う。農家の横ではすでに田んぼに水が引かれ、田植えの準備のための苗床が青々しい。 最近の梅雨はゲリラ豪雨となり各地に被害をもたらすが、日本の梅雨は本来田植えに不可欠のものだと今さらながら気づく。エジプトのナイル川の両岸には緑が広がっていたが、少し離れるともう砂漠である。アジアモンスーンのおかげで日本は山紫水明の国となった。水を張った田んぼには山影や農家の納屋が映って、額縁に入った一幅の絵を見る思いである。東京は確かに刺激的な都会ではあったが、天地自然に日常的に会えるのは田舎暮らしの特権なのだ。 |
2018年06月11日 遠くの山はきれに見える
|
最近、会社を辞めて他の会社に転職した青年の消息を聞いた。彼は、辞めて初めて元の会社の良さがわかったそうである。確かに会社で働いていると、会社の悪い点ばかりが目につく。方針が悪い、上司が悪い、風通しが悪い、自分の実力を認めてくれないなど問題点はキリがない。そしていつの間にか客観的に見る視点は忘れがちになる。「隣の芝生は緑に見える」、「隣の奥さんがきれいに見える」という状態は、理想化した幻想を見ているに過ぎない。 また、自分可愛さのあまりに自分自身を美化したり自信過剰になっている人に会う事もある。社内でも「絶好調」とか「大丈夫」という言葉を聞いた瞬間、こりゃ危ないなあと内心思う。私自身必要以上のアラ探しや自信過剰には気をつけなければならない。 |