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休日に馴染みの店主から携帯電話がありました。ご先祖は亀屋覚平と言う人かと尋ねられたので、私が明治時代の創業者であることを告げると、面白いものが手に入った、という返事です。感じるものがあり、是非にも取って置いてもらいたいと答え、後日譲ってもらったものがこの印刷物です。
一見して感動いたしました。大判の油紙に羽を広げた雄のクジャクと雌のつがい、牡丹が組み合わされたその中心には、乾物卸売所の広告らしきものが描いてあるのです。しかも、発行人として、「やまカ」の屋号と「亀屋覚平」とあります。多分、これは明治半ばのものと推定(その理由は後で)しましたが、今まで不確かだったことでありましたが、当時は、屋号として「やまカ」を、店名は「亀屋」としていたことがはっきりいたしました。社史としては新発見と言えるのです。
古文書を読むことができないために、本文の解読は専門家に依頼中ですが、蒟蒻粉、昆布、漬物といった文字は読めますので、当時の主たる取り扱い品目が分かってきます。
さて、これとは別に譲っていただいたものが、歌舞伎の興行に関する一枚です。これには、熊本阿弥陀寺町東雲座にて、中村鴈治郎一座が興行した際の出演者一覧が載っているようです。
手元の資料で調べたところ、明治に入って熊本には、市民の娯楽のための芝居小屋が三カ所あったとあります。それは、川端町の末広座、阿弥陀寺町の東雲座、船場町の歌舞伎座です。この内、東雲座は明治21年に開設されたようで、現在山鹿市に保存されている「八千代座」のごとき立派な芝居小屋が庶民の娯楽の場として隆盛を極めていた時代があったことが知れました。因に、明治33年に50人を越える娼妓さんがストライキに立ち上がったという遊郭「東雲楼」とは別施設のようです。
こうした付属資料のおかげで、乾物卸売の印刷物は明治半ばのものと推定したという訳です。それにしても、ご先祖さまが、会社のPRのために、こうした手の込んだチラシを作り配ったことに畏敬の念を覚えたのでした。
100年以上も前の資料を今日まで大事に保存して来た旧家に、感謝の気持ちでいっぱいです。
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