2011年11月07日 フランス視察報告(第7回)
■リヨン(Lyon)
![]() ![]() 都市圏人口164万人を誇るフランス第二の都市である。古来から物資の集散地、交通の要衝として発展してきた。今日でもパリや隣国スイスのチューリッヒまで約4時間半で行くことができる。 中世では絹織物業で発達したが、最近は重化学工業や金融センターとして発展、活気あふれる都市に変貌した。
他地域と同様、旧市街と新市街に分かれており、旧市街は昔ながらの面影を残すよう努力されているのはさすがである。旧市街は歴史地区と呼ばれ、古代ローマ時代の遺跡に始まり、中世の石造りの街並みが保存されている。この地域の特徴として、絹織物業者や住民が使ったトラブールという建物内の抜け道がある。200カ所を超えるのは、リヨンだけとかで、不思議な空間は一度体験する価値がある。(ここも世界遺産)
街のどこからでも見えるフルヴィエールの丘には、リヨンの象徴である白亜のサン・ジャン教会が建っている。ローヌ河越しに見る教会は、丘の下にある建物群と川面に映って美しい。
街中にはレンタサイクルコーナーがあるが、住民は登録さえしていれば、クレジットカードで使用できるという。ここにも環境に優しい街作りの一環を見た。 コラム Column ◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇ ◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇
ロワール河やセーヌ河、ローヌ河という大河がある。スイスやイタリア国境付近のヨーロッパ・アルプスやスペイン国境のピレネー山脈を除くと、フランスは概して平坦な国土と言える。そのため川の勾配はゆるやかで、洪水防止のための護岸工事は少ないように感じた。ドイツ同様に、多少の洪水を恐れて護岸工事をするよりは、景観を重視するという国民性があるのかも知れない。
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2011年11月06日 フランス視察報告(第6回)
![]() ■アヴィニヨン(Avignon)
人口9万人の城壁に囲まれた中世都市である。1309年に教皇庁がこの地に移転し、カソリックの本山として繁栄した。これは、時のフランス王がローマの法王に対抗し、政治的に教皇を擁立すると共にフランス国内に留め置こうとした結果である。
従って、教皇庁の威容がそのまま残っており、中世の面影を随所に感じることができる。旧市街の街並みと共に世界遺産に登録されているのも当然である。
さらに童謡「アヴィニヨンの橋」で有名なサン・ベネ橋がある。ローヌ河の度重なる氾濫で、22あった橋脚の内、現在残っているのは4つのみである。
ローヌ河沿いのレストランで郷土料理を食したが、屋外の席は観光客であふれていた。
対岸には、世界遺産となった中世の街並みが望見され、フランス料理とワインをリバーサイドという最高の環境で堪能できた。
コラム Column
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源流は16世紀にもたらされたイタリア料理である。かつてメディチ家からフランス王家に嫁いだ姫君が、当時の野蛮な食事方法に革命を起こした。その後フランス国内で洗練され、今日の世界的な名声を得ることとなった。 ソース体系が高度に発達していることが特徴で、各国の外交儀礼の正餐として採用されることが多い。
2008年にサルコジ大統領がユネスコに登録推進することを発表。2010年に世界無形文化遺産として登録された。登録内容は「フランス人のガストロミー的食事(美食術)」で、ガストロミーとは一般的には、みんなで楽しく会食、人生の重要な時の食事、祝い事の食事、各地での食事を大切にするという儀式的なものをさしている。
なお、日本政府は本年9月には、日本の食文化を世界無形文化遺産として登録するために調査団をフランスに派遣した。メンバーの中には、味の素(株)の山口範雄会長らがいる。
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2011年11月05日 フランス視察報告(第5回)
![]() ■ エクス・アン・プロヴァンス(Aix-en-Provence)
セザンヌが生まれ、晩年を過ごした美しき水の都である。
人口は14万3千人で学術・芸術都市としてプロヴァンス地方の観光の拠点となっている。街には大小様々な噴水があり、市民憩いの場になっている。大学があるせいか若い人が目立ち、常設の青果朝市のある中心部は活気あふれている。
セザンヌは印象派の画家からは少し距離を置き独自の画風を確立し、その後に続くピカソらに多大な影響を与えた。セザンヌの名を冠した施設や通りがあり、セザンヌによる街起こしが実施されている。
この地にある芸術学校内には、熊本の喜多流狩野秀鳳さんが能舞台を寄贈しており、毎年狩野一門による演舞がなされるなど熊本との縁も深い。 ![]() コラム Column
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セザンヌのアトリエは事前予約のみで見学が可能。 アトリエは一時放置されていたが、一篤志家によって保護されていたため、今日当時のままの姿で保存されたのは幸いであった。アトリエは晩年のセザンヌが裕福な両親の援助により理想の空間を作ったもので、南北両面に広い窓が開けられている。しかし南側の窓には二重の鎧戸とカーテンが設置されおり、光の微妙な調整ができるように工夫されている。床も通常はタイル貼りのところを木でしつらえてあり、優しい光が得られるようにしてあった。
セザンヌは近くの住居から毎日アトリエに通い、午前中は静物を描き、午後になるとサント・ヴィクトワーロ山を見渡す高台に写生に出かけた。これは、山が午後には順光になったからである。
アトリエ内には、名画に描かれた童子像やコップ、ベトナムの壺、三個のしゃれこうべなどと共に写生時に使ったリュックサックや杖、外套がそのまま残されていて感激した。セザンヌは大の林檎好きであったが、とりわけ腐りかけた林檎の甘い香りを好んだ。
「私は、一個のリンゴで、パリを仰天させてやりたいのだ」言ったといわれているが、なるほどセザンヌの描いた林檎の存在感は今なお多くの人を魅了して止まない。 ◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇
![]() ■ アルル(Arles)
今では人口5万2千人を数える、古代ローマ時代から栄えた都市である。カエサルとポンペイウスが覇権を争った時にチャンスが到来した。近くのマルセイユがポンペイウス側についたのに対して、アルルはカエサル側についたのである。カエサルが勝利した結果、マルセイユが没落し、アルルがローマ軍の正式な植民地に昇格した。
今日、ローマ軍が作った円形闘技場や古代劇場、共同浴場などが数多く残るのは、そうした理由からである。
また、画家ゴッホが2年強滞在する内に300点の作品を描き残した地として有名である。ここもまた、観光客がゴッホの足跡を辿れるように、描かれた多くの場所にはゴッホの絵が設置されており、興味を沸き立たせる工夫があった。
ゴッホは生前一点の作品も売れず、かつ狂人として住民から嫌われ避けられた。肖像画家を自認するゴッホの作品に自画像が多いのは、ゴッホの絵のモデルになる人が少なかったという話がある。
しかし、アルルが今日ゴッホの住んだ街として知られ、世界中から観光客を集めているのは皮肉なことである。確かに、ゴッホが描いた「夜のカフェテラス」「ローヌ川の星月夜」「公園」「ラングロワの橋」「アルルの病院の庭」「アリスカン」などを訪ね歩き現場に立つことができたのには感激した。ただ、ゴッホが一時期ゴーギャンと一緒に過ごしたアトリエは爆撃で焼失していたのは惜しまれた。
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