芭蕉林通信(ブログ)

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2012年07月06日 熊本の老舗ー吉田松花堂訪問記

昔からの夢の一つが叶いました。
熊本は江戸時代は肥後藩といい、加藤清正が熊本城を築城して以来、立派な城郭とそれを囲むようにした城下町が発展してきました。しかし、明治10年に起こった西南の役で、古い城下町一帯が灰燼に帰したのは残念なことです。
明治19年に発刊された「熊本県 商工技芸早見便覧」と称する一種の企業案内には、当時の代表的な商家120数軒が銅版画となり紹介されています。その中の一つがわが社の前身である乾物問屋「かめや」ですが、もちろん西南の役の跡に再建された店が版画となって残されています。
それら紹介された商家の中で唯一現存しているのが、新町にある吉田毒消丸という薬を製造する「吉田松花堂」です。その老舗に、50年ぶりに訪れることができたのは、冒頭に述べたように、長年の夢が叶ったというものでした。

特別なものや非日常な体験というのは、知らず知らずの内に記憶に残っているものです。
当時、つまり私が小学校4年生か5年生の頃ですから、ほぼ50年前のことになります。運動会のクラス対抗リレーの打ち合わせをすることになって、関係者が集まったのが吉田家の座敷でした。堂々として店構えの中に入ると暗い土間があり、その先の座敷から見た築山のある広い庭に、子供ながら大いに感動したものです。
立派な庭の記憶があったお陰でリレーの打ち合わせをしたことを覚えている訳で、庭がなかったならばリレーに出たことすら忘れていた可能性が大きかったでしょう。まさに、記憶は何かと連動して強まるものなのです。
さて、果たして50年前の記憶は正しかったかどうかと言いますと、約30%程度は記憶に近似していたというところです。築山と池は記憶のままにありましたが、細部となると全く新鮮な目で見る思いでした。
お住まいになっている吉田家の皆様の旧家を守る苦労を感じたのですが、事前に想像していた通りに、熊本市内の民家の庭としては名園であることは間違いないと確信しました。
それにしても、私の家が今となっては影も形もないのが惜しまれる一日でした。

2012年06月25日 国内外で見つけた熊本

思いがけない場所で地元熊本に関した事に出会うことがあります。先週初めてジャズのコンサートに行ったのは、著名な山下洋輔さんが演奏するからでした。
今日その時に買った山下洋輔さんのソロアルバムをCDで聴いていた時に、その6曲目にMt.Senbaがあったのには感激しました。何せ、自宅の近くにある船場山、かの有名な「あんたがさどこさ」の手まり唄がアレンジされて居たのですから。

ということで、過去に国内外で出会った熊本を次々と思い出しました。

東京で歌舞伎を見に行った時のことです。何気なく見た歌舞伎のその日の演目は「二条城の清正」でした。郷土の英雄、清正公が歌舞伎の演目になっているとはつゆ知りませんでした。今もって熊本でこの歌舞伎があることを知っている人はどれほどの数がいるのか疑問に思っているところです。

次は、アメリカのニューヨークでオイスターバーに行った時のことです。注文しようと英語で書いてあるメニューとにらめっこしていると、Kumamotoの文字が目に入ってきたのです。何と、アメリカで牡蠣の有名かつ人気のあるブランドが、我らが郷土である熊本の名を冠していたのです。後日帰国して調べたところ、戦後アメリカで牡蠣が壊滅状態になった時に、熊本から多くの稚牡蠣が太平洋を渡り、アメリカで飼育され広がっていったことを知りました。

さて先々週の博多駅前の広場では、バラの花びらで装飾したローズガーデンが披露されていました。そこで見つけたのが、聖火を持って馬?に乗っているクマモンという訳です。かつて細川知事時代に日本一作り運動というものがありましたが、時代を経て、クマモンが日本一になって今や県の宣伝部長として大活躍という訳です。

これからも世界で、思いがけない熊本との出会いを楽しみたいと思います。

2012年06月20日 五島列島上陸記

行く機会がありそうで行ったことがなかった長崎県の五島列島に初上陸してきました。到着したその日の新聞に、長崎県と熊本県の教会群を世界産に登録すべく、地元関係者が日本政府に申請したという記事が掲載されていました。

まさに私自身、隠れキリシタンの島、五島列島に興味津々だったのです。

写真は教会の中でも代表的な「頭が島教会」です。明治初めに地元のカトリック信者の手で築かれたもので、外壁は砂岩で男っぽいイメージですが、内部は花柄がふんだんに使われ女性らしい優しい雰囲気と対照的でした。

上五島町だけで、29もの教会があるそうですが、これらは大体海岸沿いにあるようです。かつてキリシタン弾圧が激しかった頃、陸からの道はなく、ただ海からのみ訪れることができる場所を選んで、隠れキリシタンの信者が集落を作っていた名残です。

「頭が島教会」に隣接して、まるで花園と見間違うような墓地がありましたが、これらはすべて海を向いてるのも、海とともに暮らした信者達の思いと感じました。

また、現地に行って初めて知ったのですが、五島は遣唐使船の最後の寄港地として重要な拠点でした。空海や最澄を乗せた第16期遣唐使船もここから西に向かい、荒波の先にある揚州を目指したのです。

空海が残した言葉「辞本涯」が石碑として残っています。日本の涯を辞する、という意味でしょう。私も世界遺産登録を応援したいと思っています。

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