芭蕉林通信(ブログ)

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2009年09月25日 放生会 町衆 能に打ち込めり

9月21日、熊本市最大のお祭り「藤崎宮例大祭」が晴天の下、盛大に執り行われました。一般的には、武者姿で練り歩く随兵行列や飾り立てた馬が出る馬追いが有名ですが、神様が休憩されるという「お旅所」ではしめやかに奉納能がありました。

明治維新の際には全国的に廃仏毀釈運動が起こりましたが、それまでは祭りは「放生会」と呼ばれていたそうです。神社境内には仏教のお坊様達が住んでおり、放生会があると僧達は川には魚を、空には鳥を放してお祈りしていたようです。
私の生家の近くにある「お旅所」は、昨年の閑散とした会場とはうって違い、多くの人が見物に集まっていました。もっとも、能は神様に見せるものですから、一般の客はいてもいなくても関係ありません。演目は五つほどありましたが、朝9時から昼過ぎの2時まで続く奉納能は、無料で見られるのですから驚きです。
演目の一つである「羽衣」を見ている内に、能面の醸し出す幽玄さにしばし浮き世を忘れた心地がしました。

2009年09月07日 北海道沖の太平洋でイカ釣りを

苫小牧港から時速25ノットのボートで約45分。そこは見渡す限り水平線という太平洋のまっただ中。日頃、有明海という内海しか知らない身にとっては、不安を感じさせる大海原です。
おまけにイカ釣りの一投目と二投目は、水深100メートルから海面に上がる直前に鮫に横取りされるという羽目に陥りました。
水平線を見ながら、地球は丸いという証拠を見つけようというゆとりもどこかに吹き飛んで、船酔いと闘いながらの釣果競争に突入しました。

遊漁船の漁師さんに、出没するという鮫の性格を聞く時はさすがに緊張しました。幸い、人食い鮫ではないようで一安心しましたが、引き上げたイカを追って姿を見せた青白い鮫には、いい感じはしません。
風は、いつの間にか風速3メートルから6メートルに強まり、シーアンカーを降ろした船は止まればやはりうねりを受けて揺れ始めます。素人釣り師は浜ちゃんのような釣り馬鹿にはなれないなあなんて気弱になるのも太平洋のすごみでしょう。
何とか7~8匹ほど釣り上げたところでジ・エンド。
息も絶え絶え帰投しました。もっとも、船上で漁師さんが釣り立てのイカで作ってくれたイカソーメンは、甘く適度の歯ごたえがあり絶品でした。呼子港で食べるよりも新鮮なのですから当たり前です。
一人100匹という目標達成はなりませんでしたが、残暑知らずの北海道で得難い経験をした一日となりました。

2009年08月25日 海を渡って初めての原城へ

熊本から有明海を高速フェリーで渡ると、1時間もかからず長崎県島原地区に着きます。九州各県の中で、熊本県だけが他のすべての県と県境を接しているということを実感できます。
天草・島原の乱の最後の激戦地となった原城は、フェリーの発着場から1時間弱の所にありました。

原城跡は、夏草や兵どもが夢の跡、というほど雑草は茂ってはいませんでした。むしろ、よく整備されている印象です。しかし、随所に戦いの痕跡が残っているのは痛ましい限りです。
数万人の男女が籠城して戦い、死んでいったといったという説明板。戦いの最中に傷つき、死の間際に石に名前を彫って残したという石碑、戦いが済んだ後、徹底的に破壊された石垣などが印象に残りました。
原城は海に面した、守るには安く攻めるには堅いといった要衝の位置にあります。しかし、キリシタンの籠城軍にとっては、攻めてくる幕府軍は数倍の規模であり、多勢に無勢の戦いであったはずです。晩年に細川家に寄留した宮本武蔵も、この戦いに参戦し、籠城軍が投げた石に傷ついたという話が伝わっています。
城跡を散策している時に、海に面した柵の外、雑草の中に三体の小さな石像を発見しました。よく見ると、十字架を前にかざした宣教師と男女の像のようです。その三体が、遠く有明海を見ている姿は、信仰に生きて散っていった籠城軍の人たちを思い出させて、何とも哀れな感じがしました。

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