芭蕉林通信(ブログ)

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2008年02月08日 国産がいいけれど農業の担い手は?

中国のぎょうざ問題で、にわかに食品の国産志向が強まった印象です。
しかし、日本の農業や水産業の就業者が減る一方では、今の自給率39%を引き上げるのは至難の業に思えます。

2月7日付けの読売新聞に興味深い記事を見つけました。
記事によると、日本の農業就業者は312万人であり、ピーク時に比べて4分の1以下、この10年で2割減少し、65才以上の割合は59%ということです。耕作放棄地は全国で約38万f、これは埼玉県の面積と同程度であり、95年から1.6倍に拡大しています。さらに、漁業従事者は21万人余りで、この10年間で7万5千人も減少、男性だけでは65才以上が31%だそうです。
こうした現状を見ると、もはや日本の第一次産業は取り返しのつかないポイントを過ぎてしまった感がして、ぞーとします。
日本の農政がノー政と言われたりするのは、日本の食糧自給率を高めるといった一環した政策が取ってこられなかったからなのでしょう。
かつて、農業を語る会に出席し、日本の自給率を高めるには担い手をいかに確保するかが重要であると発言したことがありますが、これまでの経緯を見ると、悪い予想が当たったようで残念でたまりません。地球温暖化や食糧危機が叫ばれる今、日本の食糧調達を真剣に問い直していかなければならない時に来ています。
地産地消、身土不二、医食同源、四里四方という昔から伝えられた言葉を忘れずに、熊本という地域にある会社として、これからも食に関する情報発信を心がけていきたいと願っています。

2008年01月28日 アイデアは突然に

市川團十郎さんが、NHKの番組で「継続とは創造です」と言われた時、大変に新鮮な感じがしました。マニュアルのない世界での芸の継承は、五感をフルに使った創造的活動なのでしょう。

私にも年に一回は、経営計画などを考えなければならない日が来ます。また、新製品の開発プランに頭を悩ますこともあります。
苦労しても、いいアイデアが出てこない時に思い出すのが「下手な考え、休むに似たり」という言葉です。悲しく寂しい気持ちがします。
しかし、天才的なひらめきは突然に予告なく訪れることがある、と聞いたことがあります。映画「ビューティフル・マインド」では、ノーベル賞を受賞した数学者が芝生の上の鳩を追いながらも、アルゴリズムの理論を考えつきます。かつて、奈良女子大の教授で数学者だった岡潔先生は、床屋で髭を剃っている時に、難題の解決策に突然に気がつき、石鹸で床屋の鏡に数式を書いたと、そのエッセイで読んだ記憶があります。
この現象を我ながら解釈すると、日頃から寝ても覚めても考えに考えている時にのみ、創造の神が突然に降臨するのではないでしょうか。と考えれば、「下手な考え、休むに似たり」ではなく、たとえ下手な考えだとしても、あきらめずに考えに考える。そういった行為の連続が、創造の世界には必要条件としてあるのでしょう。
もっとも、経営計画などは、毎年これといったアイデアが出ないままに決めることが多く、そのたびに会社の幹部・社員に迷惑をかけているのですが・・

2008年01月18日 熊本で見つけた京文化

熊本日々新聞に寄稿し、1月13日の文化欄に掲載されたものです。
ふるさとの歴史発見の一部始終を紹介させていただきます。

 ふーてんの寅さん風に言えば、「オイラは生まれも育ちも新町ようっ」ということになるが、別にいばるほどのものではない。ただ、セイショコさんが作ったお城のすぐ近く、商業の中心地であった所で生まれたというだけである。小さい時の遊び場はもっぱら熊本城内であり、悪ごろの先輩にけんか大会などにひっぱられて迷惑だったことを覚えている。朝は、新町の市場に買い出しに行く大八車のガタゴトという音で目が覚めた。道路に出るとバフンが湯気をたてて、あちこちと落ちていたものだ。
  そうした新町の雰囲気は、市場が田崎町に移ったり九州新幹線の工事が始まったりでずいぶんと変わった。新幹線工事がこれから9年も続くと思うとうんざりするが、踏切がなくなった鹿児島本線を早く見てみたいとも思う。線路をまたいで車を走らせる陸橋群を記憶に残しておきたいとも思う。
  そうした陸橋群の一つが北岡神社の脇にある。いつも見慣れたこの神社は、昔は祇園社と呼ばれており、千年の歴史を持っているということには今までまったく気がつかなかった。そのことを知ったいきさつとはこうである。
 城下町に住んでいると、町にはいろいろの名前がついており、地名がその町の歴史を語っていることに日頃から興味を覚えていた。例えば、新町とは近代になっての名前と思っていたのに、実はセイショコさんの時代の町割りの際名付けられたもので、それじゃセイショコさんの作った安土桃山時代のテクノポリスではないかとか。いつの間にか、地名はその町の歴史や文化のDNA(遺伝子)を宿しているということを信じるようになった。
 その地名を研究している地元のメンバーに連れて行かれたのが花岡山周辺の歴史探訪という訳である。そこで発見したものは何かと言うと、熊本における京文化の名残といったものであった。生まれ育った街の知られざるルーツといったものに初めて触れる興奮を味わったのである。
 遠い昔といっても約1000年前、つまり平安時代には二本木に肥後の国府があり、京都から国司ら役人が赴任して来たらしい。そうした人たちは故郷である京都を懐かしみ、地名を付け神社を造った。今でも、二本木から坪井川に架かる橋を渡り花岡山を眺めると、かつて高い建物がなかった時は、この山が間近に見え大変印象的な山だったろうと想像できる。
 果たして、平安人は花岡山を京都の東山に見立て、京都の祇園社(現八坂神社)の神様に熊本に移っていただき、天元2年(979)に祇園山(現花岡山)に祇園社を建立したのだった。自宅近くにある花岡山がかつて祇園山と呼ばれていたとは露知らなかった。後で調べてみると、熊本・観光文化検定の公式テキストブックにはちゃんと書いてあるというのに。このように、北岡神社の歴史はかくも古く、かつ格式は高いために、境内にある柵の石柱には関西方面からの寄進者の名が大勢書き込まれている。
 そして、北岡神社の目の前、JR鹿児島本線の向かい側の丘にあるのが清水寺。過去には、江戸時代の禅僧として有名な豪潮さんの石塔を見に行ったことはあるが、寺院名にまでは気が回らなかった所だ。さらにその近くには、枕草子を書いた清少納言の父、清原元輔を祭った清原神社。国司として熊本に来て、熊本で天寿を全うしたという思いがけない事実を知り、清少納言を一挙に身近に感じることができた。他に春日寺や長谷寺。いやもう奈良・平安時代のオンパレードではないか。
 そこで歴史のロマンをふと思い描いてみた。かつて熊本には奈良・平安人の「雅(みやび)」の文化が根付いており、その後に加藤清正の「武」、細川家の「文」と続いて来たことを。

 

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