|
熊本日々新聞に寄稿し、1月13日の文化欄に掲載されたものです。
ふるさとの歴史発見の一部始終を紹介させていただきます。
ふーてんの寅さん風に言えば、「オイラは生まれも育ちも新町ようっ」ということになるが、別にいばるほどのものではない。ただ、セイショコさんが作ったお城のすぐ近く、商業の中心地であった所で生まれたというだけである。小さい時の遊び場はもっぱら熊本城内であり、悪ごろの先輩にけんか大会などにひっぱられて迷惑だったことを覚えている。朝は、新町の市場に買い出しに行く大八車のガタゴトという音で目が覚めた。道路に出るとバフンが湯気をたてて、あちこちと落ちていたものだ。
そうした新町の雰囲気は、市場が田崎町に移ったり九州新幹線の工事が始まったりでずいぶんと変わった。新幹線工事がこれから9年も続くと思うとうんざりするが、踏切がなくなった鹿児島本線を早く見てみたいとも思う。線路をまたいで車を走らせる陸橋群を記憶に残しておきたいとも思う。
そうした陸橋群の一つが北岡神社の脇にある。いつも見慣れたこの神社は、昔は祇園社と呼ばれており、千年の歴史を持っているということには今までまったく気がつかなかった。そのことを知ったいきさつとはこうである。
城下町に住んでいると、町にはいろいろの名前がついており、地名がその町の歴史を語っていることに日頃から興味を覚えていた。例えば、新町とは近代になっての名前と思っていたのに、実はセイショコさんの時代の町割りの際名付けられたもので、それじゃセイショコさんの作った安土桃山時代のテクノポリスではないかとか。いつの間にか、地名はその町の歴史や文化のDNA(遺伝子)を宿しているということを信じるようになった。
その地名を研究している地元のメンバーに連れて行かれたのが花岡山周辺の歴史探訪という訳である。そこで発見したものは何かと言うと、熊本における京文化の名残といったものであった。生まれ育った街の知られざるルーツといったものに初めて触れる興奮を味わったのである。
遠い昔といっても約1000年前、つまり平安時代には二本木に肥後の国府があり、京都から国司ら役人が赴任して来たらしい。そうした人たちは故郷である京都を懐かしみ、地名を付け神社を造った。今でも、二本木から坪井川に架かる橋を渡り花岡山を眺めると、かつて高い建物がなかった時は、この山が間近に見え大変印象的な山だったろうと想像できる。
果たして、平安人は花岡山を京都の東山に見立て、京都の祇園社(現八坂神社)の神様に熊本に移っていただき、天元2年(979)に祇園山(現花岡山)に祇園社を建立したのだった。自宅近くにある花岡山がかつて祇園山と呼ばれていたとは露知らなかった。後で調べてみると、熊本・観光文化検定の公式テキストブックにはちゃんと書いてあるというのに。このように、北岡神社の歴史はかくも古く、かつ格式は高いために、境内にある柵の石柱には関西方面からの寄進者の名が大勢書き込まれている。
そして、北岡神社の目の前、JR鹿児島本線の向かい側の丘にあるのが清水寺。過去には、江戸時代の禅僧として有名な豪潮さんの石塔を見に行ったことはあるが、寺院名にまでは気が回らなかった所だ。さらにその近くには、枕草子を書いた清少納言の父、清原元輔を祭った清原神社。国司として熊本に来て、熊本で天寿を全うしたという思いがけない事実を知り、清少納言を一挙に身近に感じることができた。他に春日寺や長谷寺。いやもう奈良・平安時代のオンパレードではないか。
そこで歴史のロマンをふと思い描いてみた。かつて熊本には奈良・平安人の「雅(みやび)」の文化が根付いており、その後に加藤清正の「武」、細川家の「文」と続いて来たことを。
|