2020年11月10日 二人の教育者
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B先生は教育評論家としてしばしばコメンテータとして発言している女性である。彼女も学校の先生をしていたのだが、生徒への接し方は独特のものであった。その指導法に名前をつけるとしたら、「問いかけ」とでもなるのだろうか。学校を見回っていた時、男子トイレからモクモクと煙が出ているの発見。B先生はその生徒に、「何々君、タバコ吸うなんてどうしちゃったの? 何かあったの?」と聞く。当然生徒は、「いや一度試してみたいと思って」とか「友達に勧められて」と答える。B先生は生徒に答えさせながら、良くないことをしたと自覚させ反省させるのであろう。 さて、A先生とB先生どちらが良いか判定しようとするのではない。自分自身に置き換えた場合に、他人を指導する難しさを再認識するだけである。私はどちらかと言えば、A先生的なところが多いと自覚しているだけに、単刀直入に問題を指摘するのではなくたまには時間をかけて相手に考えさせる機会を与えてみたいと思う。「雀百まで踊り忘れず」というから、私には無理無理という声がどこからか聞こえて来そうだ。 |
2020年11月04日 砂漠の砂・砂漠の石
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そんな感慨があり又旅の記念にもなると思って、エジプトのサハラ砂漠や敦煌のゴビ砂漠では砂をペットボトルに入れて持ち帰った。日本に帰って見比べると歴然とした違いがあることに驚いた。粒子の大きさ、さらさら度、色艶が明らかに違う。サハラ砂漠の砂は均一で粒子が小さく赤みを帯びているのに対し、ゴビ砂漠の砂は粒子がやや大きく黒と茶が混じっている。大地の形成方法や自然環境が違うのだから、砂の形質が異なるのは当たり前なのかもしれない。世の中では現物を見て初めて気づくということがしばしば起こるが、砂漠の砂もまさにそうだった。 エジプトの階段ピラミッド近くで拾った石、敦煌で集めた石も感じがまったく違う。前者は角がとれ丸みを帯び、後者は風化した痕跡が小さい筋として幾重にも残っている。石を手のひらに乗せて感触を楽しみ、時には虫眼鏡で観察しながら砂漠のロマンに浸る時間を大切にしている。さてこうして書いて来ると、庭で拾った石を手のひらに乗せて一日中眺めて飽きなかったという画家・熊谷守一に、私もいつの間にか似てきたのかも知れない。(写真の右の3個の石はエジプトで、左の3個は敦煌で拾った石) |
2020年10月27日 セザンヌのリンゴ
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画家のアトリエは普通の家とは全く違う。天井は高く、窓は広く、光線を調節できるようにカーテンが巧妙に配置されており、対象物に光と影がうまくできるように設計されている。これは久留米に残されている坂本繁二郎のアトリエにも共通するもので、画家は光線と光線が作る闇からカタチを得るのである。 セザンヌのアトリエを訪問した人の共通の不満は撮影禁止ということであった。アトリエには天子像や枯れたリンゴ、どくろの他に、セザンヌが写生散歩した時の道具や上着なども残されており、セザンヌファンとしてはたまらないのである。写真を撮れない不満解消に買ったのが、写真にある陶製のリンゴと西洋なしである。「セザンヌのリンゴ」と勝手に解釈して、秋になると机に上に出してはうっとりと眺めている。 |