芭蕉林通信(ブログ)

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2016年09月27日 恩師の面影

 恩師の突然の訃報であった。一ヶ月前にお会いした時は持病に苦しんでいるとはいえ、いつもの明るい態度で接していただいた。享年87才だから天寿を全うされたと思い、ご冥福を祈ろう。  お通夜と葬儀に参列しながら、恩師の人柄を思い出して俳句をひねり出した。  「秋天を 龍の昇りて 遺徳あり 」

 恩師(H氏と呼ぶ)との思い出は尽きぬほどある。まずは私の両親とH氏との親密な関係があった。戦後は両親もH氏もゼロからのスタート切るようなもので、熊本市内の問屋街で食品問屋をそれぞれ営んでいたのである。当然ながら、両家はお互い励まし合いながら、時には取引をしながら戦後の復興に賭けたはずである。  結果的には高度成長期と呼ばれた時代も、変化が早く競争が激しい業界では企業の淘汰が続いた。両親の会社が長年利益を十分に出せないままでいる間に、H氏は武運つたなく店をたたんだ。しかし、H氏の能力を高く買っていた父は、H氏は必ずや復活すると予言した。当時は遊びのない時代であり、問屋街ではよく相撲が取られた。そして、腕力が強いH氏は相撲に強い、バイタリティ溢れる人物でもあった。
果たして、H氏は創業者である兄と腹心の部下と僅か三人で惣菜業を創業した。口癖は、士農工商・惣菜屋であった。朝から晩遅くまで、365日作っては売り続けなければならない惣菜業の労働の過酷さを表現したのである。そして、見事に一代で立派な会社を作り上げ、惣菜業を天下の成長産業にまで押し上げたのである。  教え惜しむことのない人格を慕って、全国から多くの人が教えを乞いに集まった。一時はH学校と言われるほどであり、今では数多い卒業生が全国で企業を起こし、事業の拡大を果たしている。また、独自のビジネスモデルは苦心の中から編み出された。創業当時、百貨店に出店し売上の大半を稼いでいたものの、テナント料が経営を圧迫すると考え退出。ロードサイドに直営店を開設し、H方式を呼ばれるほどの成功モデルを作り出したのである。

 さて、H氏を何故恩師として仰ぐかは以下のことがあったからである。  平成元年に63才の父を失くした私は、公私ともに大変な事態に遭遇した。当時39才の私には、父亡き後の企業を経営するのは至難の業だった。その時心配してくれたのがH氏であり、青ざめていた私に対して「もし、1億円ぐらいならばいつでも用意するよ」と声を掛けてくれたのである。その時の有り難さは今でも忘れられない。そして、その温情に報いるためにも、またH氏に迷惑や心配は掛けられないと思い、やっと前に進む勇気を取り戻したのである。
その後、終身監査役として我が社の指導を仰いできた。会社の業績報告と称してH氏に会うのが毎月の楽しみであった。会えば仕事の話は5分ほどで終え、後は天下国家のことや趣味の話に没頭した。私を過大評価してくれるのがいつも面映かった。二人して幹部社員を引き連れてアメリカ視察をしたこと、熊本から福岡に進出している企業を束ねる会を創設したことも思い出深い。  今朝は父の仏壇で、H氏が天国に行くので仲良く話し合うように語りかけた。きっと今は会っている頃だろう。

2016年09月20日 鷹の渡り

 俳句仲間から誘われて鷹の渡りを見に行くことになった。早朝7時に熊本駅に集合して、二台の車に分乗して一路天草へ。とここまではいいのだが、肝心の行き先は野鳥の会に所属している友人に先導されるまま。なんと3時間かけて牛深近くまで行ったのである。  牛深に至る少し前で、車は突如細い山道に突入した。鷹の渡りを見るのだから、人里離れた場所に行くのは当然と思いながらも必死に先導車に付いて行った。そして、お目当ての六次郎山山頂に着いて驚いたことに、狭い駐車場は車でいっぱい。しかも本格的な超望遠レンズを持っている人、双眼鏡で谷を見ている人、椅子を出してのんびり座っている人。遠くから鷹の渡りを見に来た人達が大勢集まっているのだ。世の中にはもの好きの人がいっぱいいるんだなあというのが率直な感想だった。

 我々も思いがけずに遠くまで来たのだから目的を果たさない訳にはいかない。すぐさま準備してきた双眼鏡を取り出し鷹探しを始める。ところが見慣れていないためか、なかなか見つけられない。野鳥の会メンバーの歓声を頼りに双眼鏡をその方向に向ける。しかしここでまた問題発生。私の倍率8倍の双眼鏡では、遠くの森や雲の中から湧き出すように出てくる鷹を見つけられないのだ。聞けば双眼鏡は倍率10倍は欲しいと言うことだが今となっては後の祭り。カメラに至っては、持参した200ミリでは到底鮮明な鷹の画像は撮り難く、闇雲に鷹が飛翔する当たりにレンズを向けてシャッターを押すばかり。すっかり気が落ち込んでしまった。  しかし良くしたもので、倍率の低い双眼鏡でも鷹を少しずつ見つける事ができるようになった。鷹の種類は、アカハラダカと言い大きさはハトぐらいと教えてもらったが、あまりにも遠いので大きさが分かる訳もない。ただ、雲井から湧き出るように現れた鷹が100羽を越える集団となり、渡りを始めたのを見た時にはさすがに感動した。

 鷹の渡りは俳句の季語となっている。鳥の渡りの内でも、鷹となるとその雄々しさから人気が高いようだ。その鷹達は日本を出て1万キロの旅をしてインドネシアやボルネオにまで行くという。帰りは中国大陸を北上し朝鮮半島を経て日本にたどり着く。鷹はなんと壮大な旅を敢行しているのか。鷹の渡りを目撃するという素晴らしい体験ができた一日であった。

2016年09月12日 随兵寒合(ずいびょうがんや)

 地域には地域特有の美しい表現がある。地元熊本で言えば、「随兵寒合」がその筆頭ではないか!?因みに、読みは「ずいびょうがんや」であるが、意味が分かりにくいのは地域ならではの歴史や文化が背景にあるのだから仕方がない。さて「随兵寒合」の意味とは、地元に古くから伝わってきた藤崎宮大祭に関するものである。私が子供の頃は通称「ボシタ祭り」と呼んでいたこの祭りは9月半ばに開催されるのが通例だった(今は9月の不定期日)。不思議なことにこの祭りが始まると、朝晩がめっきり秋めいて一挙に涼しくなるのである。因に、随兵とは祭りの先頭を行く甲冑姿の侍の行列のことを指している。

 若い人と時候の挨拶をしていて、「やっと涼しくなりましたね」と言われたので、つい「随兵寒合だものね」と答えたら、全く分かってもらえなかった。言葉は生き物だから、使用されなければ死語となっていく。今日まで地球上で数知れない言語が使われなくなり、忘れられていったことを思う。言葉がなくなるということは固有の文化も同時に失われるということだ。

 地域の特徴ある風景がなくなるように、地域固有の美しい言葉がなくなるのは悲しいことだ。こういう私にしても、東京でしばし生活したおかげで日頃は標準語で話している。これからはできるだけ方言を使い、歴史的文化的な背景のある言葉を若者に伝えていきたい。

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