2015年10月16日 秋晴れに誘われて
![]() そうした秋の一日、秋晴れに誘われて阿蘇へのドライブを敢行しました。熊本市内では阿蘇からは遠い西側に住んでいますが、それでも車で1時間強で行ける阿蘇は大変身近な行楽地です。かつて年間1400万人の来訪者があると聞いたことがありますが、熊本市内と阿蘇を結ぶ国道は、通行量が多いために路面店にとってはドル箱路線となっているようです。もっとも、近年は国道以外にも複数のアクセス道路が新設されたりしていますので、一本の国道に自動車が集中するという時代は終わっています。 とまれ、阿蘇に行って一番最初に寄ったのは、いつも気になっていた一軒のカフェでした。想像していた通り、そのカフェから見た阿蘇のカルデラと阿蘇五岳はまさに大パノラマとして眼下に広がっていたのです。熊本の直木賞作家であった故光岡さんが生前、阿蘇の雄大さを表現するには神話を借りてくるのが一番だ、と言われていたことを思い出しました。確かに、阿蘇には多くの神話が残っているだけでなく、阿蘇神社や弊立神社などの神社群、また波野には神楽が伝承されているなど神様はどこにでも住んでいらっしゃるのです。 当日は雄大な阿蘇を見ながら、今人気急上昇中の赤牛を食べ、パットパットゴルフを楽しみ、コスモス畑では新婚さんの写真の前撮りを観察し、道の駅で新鮮野菜を爆買いして帰途についたのでした。 |
2015年10月05日 ローカル電車に乗って
![]() かつて東京の神楽坂に住んでいた時の思い出の一つが、早稲田大学大隈講堂の近くから乗った都電荒川線です。そもそも電車を発見したのは単なる偶然で、家族と散歩していた時のことでした。「おっ、東京のこんな所に古い電車が走っているなんて」といった感じでした。その電車に乗って、鬼子母神ではススキで作った木菟を土産に買い、雑司ヶ谷霊園では夏目漱石の墓を見つけて感激したものです。
![]() さて、我が故郷にも、熊本駅や中心市街地を結んだ市電が長年市民の足として親しまれてきました。最近では、新幹線の開業に合わせるかのように、低床の最新鋭の車両が導入されたり、レールの敷いてある所に芝生が植えられたり、車両も路線敷地もすっかりおしゃれになりました。
本日ご紹介するのは、その市電ではなく、民間会社である熊本電気鉄道が運行しているローカル線です。このローカル線の思い出はこれまた随分昔に帰ります。具体的に申しますと、私が小学生の頃のこと、冬には必ず「うさぎ狩り」という学校行事があったのですが、その狩り場に行く時に生徒全員で乗ったのが熊電の電車だったという訳です。
自動車の普及により、熊電の路線も短縮を余儀なくされている今日ですが、ここには退役間近となった古い車両で5000系、別名「青ガエル」と呼ばれる電車が運行しています。その車両に乗らんとして、また写真に収めようとして、先週家族ともども小旅行を敢行しました。結論から申しますと、土曜日は「青ガエル」は運行せず、日曜日のみと言うことで、見事肩すかしを食いました。確かに、「青ガエル」は鳥で言えば、車両基地で羽を休めていました。
ともあれ、秋晴れの一日、高速道路をぶっ飛ばして運転するのとは大違い、まことにのんびりしたローカル電車の旅を満喫し、まんざらでもないなと思った一日となったのです。乗客が少ない時は、自転車と一緒の乗車OKというのも、のどかで好感が持てました。もっとも、「青ガエル」に乗るというリベンジの機会は残りましたが。
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2015年09月24日 奉納能407回の重み
![]() 秋晴れの続く季節となり、9月20日には熊本では最も歴史と伝統のある「藤崎宮大祭」が開催されました。当日は久々に早起きして、朝7時には祭りが通る新町に向かいました。新町は私が生まれた町であり、明治2年に創業した地でもある馴染みある場所です。早起きしたせいか、祭りの先頭に立って歩く元締めの先輩に久しぶりに遭遇したり、民謡「田原坂」に出てくる馬上豊かな美少年とは違いましたが、堂々たる甲冑姿の熊本市長とは随兵行列が立ち止まった時に立ち話ができました。
今年の祭り見学の目的の一つは、新町が町として参加する獅子舞の獅子に、健康に成長するようにと孫達3人を咬んでもらうこと、もう一つが「お旅所」で奉納される能を見学することでした。無事に幼子の孫が獅子舞に咬まれた後は、9時から始まる奉納能の見学です。
祝言で幕が開いた後は、熊本ゆかりの「高砂」、そして狂言を挟み、「敦盛」「羽衣」「長坂」と豪華な演目が続きました。この奉納能は、古来から「お旅所」で休んでいる神様に見せるものと言われており、従って見に来ている観客は神様と一緒に見ているということになります。神様に見せる能ですから、見るのにお金がいる訳ではなく、むしろ能楽関係者が総出演と言った豪華版でした。
さらに驚いたことは、今年の奉納能が407回目という事実です。熊本の地を治めた加藤清正や細川家歴代の殿様は、能を武家の式楽として大事にし、かつまた細川幽斎や忠興に至っては、太鼓を打ったりシテを舞うなどしていたのですから本格的な愛好者だったのです。
407回続く間には、明治維新時の混乱、同10年の西南戦争、第二次世界大戦の戦火などがあり度々中断したであろうと考えると、この奉納能は遅くとも江戸初期から始まっているのに違いないのです。こうした歴史が身近な所で味わえる幸せを感じた祭りの一日となりました。
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